創業者物語
創業者のお話です。
世間ではあまり有名でない会社なので、興味のないかたも多いかも知れませんが、 創業者がいてわが社があるのです。創業者 夫人の故北村ミツエさんは、当時は京の三女傑と言われるような凄い女性でしたが、もともとは、何処にでもいる普通の女性でした。固い話ではありませんので、 気軽にお読み下さい。

その一 一念発起

「ご主人、めっきといかいう仕事の方に廻してください」小柄ながら意気込みだけは誰にも負けない12才の和造少年(創業者)は、何かに取付かれたように、しつこく懇願した。

丁稚働きを転々としたあげくようやく仕事らしい仕事についたロクロ職人とはいえ、小柄で力のない和造にとっては、足踏みロクロでの引き物加工は、ともすれば、先輩たちから口汚なくののしられる材料を作り出すのみで、とても一人前になれそうにもなかったからである。一生懸命足を動かしていると手が留守になり、手先に力を入れて引き物をしていると、思うような回転をしなくなる。当時のモーターによる動力源を使用しなかった時代の話で、必ずしも和造のわがままとは思えない体力を必要とする仕事であったようである。

和造の父米次郎は、三重県上野市での代々素封家であった北村善七の次男奈良次郎の養弟となり、長女ま津と結婚するという、持参金つきの嫁取りであったが。生来の放蕩があらたまらず、和造が小学校を終える頃には、養父兄も見るに見かねて勘当同様に追い出されるはめになり、生来の三重県にも居られず、仲の良かった次男は他家の養子に出し、可愛い妹は父の生家に預けられるという悲しい離別となった。

こうして、両親に連れられて放浪の旅に出た長男和造にとっては、なんとか早く一人前の職人になりたいといういう強い一念が根ざしていた。 そして大阪へ、年を経ずして京都へと、安住の地を求めて親子3人が、淀川を伏見を三条へと船で入洛したものの、手に職のない父にとっては、一家の生計など容易なことではなくもその日から父、母、子とそれぞれ別れ別れになっての生活苦しか待っておらず、いがぐり頭の和造に京都での第一夜は呉服問屋の丁稚部屋であった。 こうして、丁稚働きを転々とし、ロクロ職人となり、そして最後にこれこそ自分の転職てあると懇願したのがめっきであった。

多感な少年期を何のむくわれもなく、ただ早く両親、弟妹達と一緒に生活がしたいという気持ちで苦労を重ねて成長した和造にとっては、思い出すのもさびしい少年時代であったのか、あまり多くを語ろうとせず、晩年、養女に迎えられる結果となった弘子(現社長夫人)を我が子以上に可愛がり、幼い頃から寝床を並べて過ごすことが多かった折々に、しみじみ語った思い出をつなぎあわせると、創業者北村和造の鍍金業との因縁をうかがうことができる。

さて、そのめっき部門で数年間を過ごした和造は、めっき職人としてようやく自信ができた頃を最後に、当時職人は方々渡り歩いて、仕事上での武者修行を積まなければならなかった時代で、またそれを数多く重ねる程ハクが付くという風評さえあったらしく、大阪、神戸、また大阪へと、技術の修得を重ねたようで、めっき職人への道を選んでから10年余り、各地で修行に励んで、再び京都の地を踏んだときには、生来のやる気と、器量で一人前の職人に成長していた。

東山二条の某鍍金工場に技能者として招かれ借家ながら一家を構えた和造は、両親の住む京都を頼って、当時既に日本髪結として立派に成人し、兄の身の回りの世話をしていたかつて、幼くして父米次郎の生家に寂しく幼少時代を過ごした妹ゆうも目を丸くするほどの稼ぎを得るまでになった。

その二 妻 ミツエとの出会い

和造の妻ミツエは、中島善之丞・菊江の長女として三重県名賀郡美濃波多村の豪農に於いて明治33年2月3日に生まれた。役場助役を務めた厳父のもとで裕福な中に育ったようである。年頃となり、また兄勝が結婚するに及んで両親としては、草々に良縁をと願わずに居られなかったが、厳しい父に反して祖母は、色白で多少オテンバの孫娘が可愛くてならず、当時この地方では、どんな家に嫁いでも田畑の仕事はつきもので、野良仕事から開放される嫁は皆無とされていたが、この娘にはそれをさせたくないと心に念じていたらしい。

案外ミツエの願いが通じたのかもしれないがね後になって和造の妹ゆうがミツエに対して、中島家のように何の不自由なく暮らせた娘さんが、和造のように兄弟の多い貧乏人の長男の嫁に何故きたのかと尋ねると「とにかく百姓仕事がいややった、それさえなければ何処でもよいと思った」と笑ったそうである。その気持ちは本当に貧しい生活を味わったことのない乙女時代のミツエにとっては無理からぬことだったろう。

また、和造の父米三郎の養父の家は、もともと財産家であるから立派に成長した和造の噂を耳にするにつけても、当時では27才といえば嫁をとるにも遅い方で、早く所帯を持たさなければと経済的にもかなりの支援をしたようで、また中島家も上野の北村家であれば家柄としても悪くないと思ったからである。必ずしも、祖母やミツエの密かな願い事のみで縁組みが進められたのではないようである。 ミツエは数え年18才、和造が10才上の28才、当時のとしては年令差があり過ぎるようであるが、ミツエの18才は決して当時は早婚ではなく、むしろ和造の晩婚が幸いしたと言えるのか、和造にとってはかけがえのない可愛いお嫁さんで和造の死後、京都の三女傑の一人とも言われる如くに、困難な時代を女手一つで切りまわしてきたのであるが、ミツエも若い頃は、なかなか思うようにいかなかったようだ。

当時同居していた夫の妹に仕えての新婚生活であった。しかし、節分の日の生まれのミツエは縁起のよい日であることを知ってか知らずか、誕生日と結婚式を同じにすると言って親を困らせたりした。また、何かと理由をつけては田舎の親の家で気楽に過ごす日が当初はたびたびあったようで、また10才も年下の可愛いお嫁さんを迎えた和造も、それを気にするほど心の狭い男ではなく、むしろ長い辛苦を乗り越えて近い将来必ずや自立すると深く心に決している和造にとっては、今後どんな苦労をかけるか計り知れないと思い、その時まではと笑顔でミツエのわがままを聞き入れていたようであった。当時から家族同様に出入りしてきた、故名川氏によると「夫婦仲はとっても良かった、年上の和造さんがとても甘やかしてはりました」と創業後、夫の仕事を助けて和造を支える陰の力としてよく働いたミツエも、決して始めは夫のよき伴侶ではなかったと笑っておられるのをみても、夫和造の苦労を重ねた人生体験が心の広い思いやりとなり、夫婦の絆を一層深いものにしいたと思えてならない。

その三 苦多くして楽なし

楽しいはずの新婚生活に甘えて居れる和造ではなかったし、中島家からミツエを迎えた周囲もそれを許さなかった。ようやく自立を決心した和造は、その準備に多忙な日を送った。

現在もそうであるように、めっき業は100%下請け加工で、しかも加工品がその姿を変えずして往復するのが常であるため、仕事の運搬を心がけておかねばならず、また比較的電力を多く使用することと、水商売と言われるくらいに、水質の良い豊富な水が必要である。したがってそれなりに立地条件が選定されなければならない。当時、京都の二条に島津製作所を中心とする諸工業が発達していた。

また寺町を中心に医療診療器材商が多くあり、それらの受注をめざすと共に、疎水の豊富な水量に目をつけて、現在の三条通りを高瀬川沿いに少し下った西側、即ち今は歓楽街の中心として賑わっている辺りにあった貸工場というよりは、少々広めの土地を借りたという方が分り易い程度のものが創業時の仕事場であった。

木製のタンクを並べ、ベルト掛けモーターで発電機を廻してのめっきで、設備的には現在からすれば、想像出来ない程度のものであった。資金は、当時ミツエの出身地方では、結婚時には現在のように、いわゆる嫁入り道具持参というのではなく、後日頃を見計らって持ち込むという風習があったので、和造の創業に相当の金子が持参され、設備費の基盤とされた。

故にミツエには花嫁道具は無く、事情の分からない隣近所からは定めし肩身の狭い思いもしたことであろう。研磨職人1名、めっき補助作業1名の3名でスタートしたことは間違いなく、当初は仕事も順調で、創業後間もなくして、昼の食事や、忙しい時には夜業のために夕食をとミツエが、大きいお櫃(おひつ)に御飯を重そうに入れ片手に鍋を下げて、正面通り大黒町上がるの家から三条の職場まで通う姿がよく見られたようである。

職人も5~6名に増員されるまでには、いくらも月日を要しなかったようである。創業当時は真鍮板を加工して作られた注射器入れやガ-ゼ管等の医療器材や煙草のキセルの口金の研磨や、ニッケルめっきが主要な仕事であった。

真鍮製品を化学研磨する方法の1つにキリンス仕上げというのがあるが、めっきの表面仕上げをきれいにするためには、素材の表面を平滑にしておく必要がある。当時はこの作業を高瀬川に飛び込んで、付近を人が通らない時を見計らってやったものだと、近頃は環境問題への配慮からめっき業に対する数々の規制が厳しさを増すに至って、業界の先輩から聞かされた事で当然金属の表面を薬品で研磨するのであるから猛烈なガスが煙のように発生するわけであり、今日ではとても想像もつかないことで、当時の光景を想像するとき不思議に思えるのみではなく、むしろ苦笑せざるをえない。

ところで月がたつに従って仕事は必ずしも順調に進むとは限らず、仕事一途に若い時代から過ごしてきた和造としては、よい仕事さえすればと思うのであるが、世の中は和造のような心がけの者ばかりといかず、仕事が順調にゆき人数も増え、お得意先も数多くなるに従っていろいろと問題が起こったようである。

その四 内助の功

夫の和造は、仕事は熱心で技能も優秀であったが、少なくとも事業家ではなかったようで、仕事はしても金を払ってくれない得意先には、集金にも行かないといった具合で、所帯の切りまわしをするミツエにとっては、月末、盆、正月が来ても予定が立たない事で、口論も初めの頃はしていたが、それもあきらめ、ミツエ自身が出かけて行っては、それなりに処理していたようである。

仕事が忙しければ自分自身で夜遅くまでも頑張るという風で、その都度ミツエは、手伝いに馳せ参じて、内助の功を惜しまなかった様だ。当時既に一歩職場を出れば、映画館の看板が見られるほどの賑やかさであったらしく、一度夫婦で行きたいと思いながらも、何時も広告の移り変わるのを、人通りも少なくなった道すがら、恨めしそうに眼を走らせながら家路に急いだものであると述懐していた。

しかし、新婚間も無い1年間をのぞいて、創業以来、東山馬町の元北村鍍金本社跡に工場を移転するまでの10年間は、浮き沈みの連続で順調になれば金がいる、不調になれば苦労するの繰り返しで、苦多くして楽少しの時代であったようで、ミツエ自身も何度か実家に金策に走ったようである。何不自由のない環境から野良仕事いやさに、年若くして京都の地に嫁いだミツエもこうした中にあって、不朽の事業魂というものが、養われていったのであろうか。いや、何とかして主人のために尽くそうとする芯の強さがそうさせたのであろう。

こうした内助の功を重ねたミツエは、決して男勝りのような女ではなかった。忙しい家業の合間をみては、数多い主人の弟妹に対して季節の変わりには、金銭ではできないが、持ち前の器用さで着物を仕立てたり、編物で造ったりして、やさしい姉として心遣いは忘れなかったし、使用人の面倒も実によく気がついていたようだ。

特にどんなに苦しい世帯の中にあっても、やりくりして、正月には新しい社名入りのハンテンを着せたとか、雨降りに備えて大きな字を書いた雨傘を用意しておく等、ただ、たんに女らしい心遣いのみならず、家業もチャンと宣伝するという天性を持ち合わせていたといえよう。

こうした姉の苦労を見るにつけ、何とか力に名ろうとして、ミツエの弟達が、特に三男孝直(故人元相談役)が、この道に入ったのは、工場が移転して間もない頃であった。

その六 良二の死

しかし、幸せそうにみえた一家の生活も、そう長くは続かなかった。養育していた娘の一人は嫁いでいったし、仕事を任せていた孝直も幼子達を残し、ミツエに家族を託して戦場におもむかなければならなかった。そして日本の敗戦も色濃くなってきた昭和19年師走の月を迎えて間もなく、将来を託そうと心に念じていた良二が、沖縄戦線に於いて病に倒れ陸軍病院で病死したという悲報を受けた。

ミツエは三日三晩気がくるったように号泣した。よる年波が目立つようになった和造にとっても、ミツエにとっても、悲しみを越えた寂しさがありありと伺えた。

本土空襲も激しさを加え、都市は焼け野原となり、唯一残った都市京都でも仕事をやろうにも仕事も少なく、機材もそこをつき工場の中に侘しさが目立つようになった。そして、長かった戦争も、広島、長崎への原爆投下を最後に敗戦の日を迎えさせられた。幸い国内のみに留まることの出来た孝直は、やがて帰宅したものの工場に一歩足を踏み入れるや、その荒れようのひどさに呆然とした。

そして、終戦後の混乱もようやく復興の兆しを見せるに従って、工場も整備され本来の仕事が出来るようになった。一方戦場にかりだされた人達も徐々に職場に復帰してきた。ミツエの悲しみも薄れてくるに従って、あの娘を嫁入りに、あの若者に所帯をと相変わらずまわりの人達の世話に奔走する在りし日の姿に帰ってきた。

生来、ものに執着心がないというのか、出せば入るという彼女独特の哲学からか、まだまだ物資の不足した時期でもあったので、自分自身の持物から間に合いそうなものは惜しげも無く与えるし、借金こそしなかったが、タンスも軽くなってしまった。

実子なきがゆえに、賑やかな事の好きであったミツエは、自分で尽くせるだけ数多くの人に世話をしておけば、晩年わびしい生活を送ることもないであろうと、本能的にそうさせたのか本当によく尽くしていたようである。しかし、現実はそのようにゆかなかった。そして、昭和25年春まだ浅い2月、風をこじらせた主人和造は肺炎を併発して、ミツエの必死の看病のかいもなく、多くの人に見守られて、あっけなく帰らぬ人となってしまった。医療の発達した現在では考えられないような、あっけない死であった。

その七 女一人ぼっちにされなかった

創業主和造の突然の死は、あまりにも悲しい現実であった。それはミツエ個人にとっても、30年間手塩にかけて創り上げてきた家業にとっても、また働く人達にも同様であった。 本当にいろいろなことが起こった。大地震後に祀る間も決して待ってはくれなかった。その事実については、一つ一つ他人がミツエの当時の気持ちを推しはかってみても決して待ってはくれなかった。勿論ミツエ一人が解決できるはずがなく、途方にくれるのみであった。それは、ただ悲しめば終わる、我慢すれば良いというものではなく、それぞれ解決策を与えなくてはならない問題のみで、中でもせっかく和造が残した事業の存続にかかわるような大事件すら発生した。勿論、策を与えてもらえそうな人には、手当たり次第相談のため東奔西走した。そして求め得た人は、彼女の人生を大きく変えたし、大いに力づけられた。それは、白髪の目立つようになったミツエの後世の師となった人たちである。

すなわち、身の回りの相談は名川栄起師、仕事上の師としては技術関係には友野理平博士、経営法律問題では、故高山義三元市長の高弟であった故松井優二弁護士、自分自身で判断しかねる場合は、運命鑑定家の竹谷聡進先生、憩いと修養に煎茶泰山流家元崩場泰山先生等々と、それぞれの立場からの支援をしていただいた方々である。このブレーンとなった方々に、ミツエが口癖のように「あなたこなたのおかげで」と云っていた言葉に万感の思いと感謝がこめられていたのであろう。

また、こうした方々のご支援も、ミツエが京都に嫁いで以来の長い諸々の人生の中に、折に触れて、その輪を拡げていった所産である。常に神仏を信じ「徳」を積むことに生き甲斐を求めて過ごした一生は、去るものもあり、集いくるものもある。害するものもあれば助ける人もある。因果応報の世界であったといえよう。

こうしたミツエの働きによって、家業も有限会社北村鍍金工業所と法人化し、幼くして養育してきた実弟の長女弘子を養女にし、諸々の出来事も総て好結果を得て、落ち着きを取り戻していった。

事業は新たな有力なお得意先を得て、徐々に活況を呈してきたたものの、まだまだ安泰感を感じるまでにはほど遠かった。そしてめっき加工も、「めっきがハゲた」贋物の代名詞であった時代から、めっきは頼りになるもの、機械金属部品にとってなくてはならない存在へと、朝鮮動乱景気も終わりを告げ、日本経済の発展もようやく着実に成長を遂げようとする時であった。

新技術、新機材と業界の激しい推移も見せたし、競争相手とする同業者も数多く出現してきた。苦難の末、新しい門出をした北村鍍金にとっては、資金不足に悩まれどおしであり、相次ぐ経済改革と激しいインフレは戦前の資産は何の役にも立たなかった。

その八 防衛庁認定

一方、工場では実弟孝直が、以前の亡夫に代わって采配をふるい和造にもまして劣らぬ位の仕事熱心で、又仕事一点ばりな所は本当に良く似ていた。いい仕事がしたい、立派な設備が欲しいと経営や資金を無視した欲望に姉ミツエを困らせたのもこの頃である。

そして、めっきの品質も段々と厳しさを増してきたものの、まだまだ金儲けするつもりであれば、いわば色さえついていれば金になる時代でもあった。そこへ孝直の眼を輝かせる事柄が起こった。精密機械工業の発達した京都には、その国家的事業に参与する企業も何社かあった。

そして、めっき作業に規格とか作業標準等が現在では一般にもちいられているが、当時はまだまだ町工場が主体のめっきの作業では耳にする言葉ではなかった。いわゆる米国MIL規格を実施する防衛庁認定工場になることである。いい仕事をしたい、他社でできないものをやりたい、と常々思っていた孝直にとっては異常なまでの執念を燃やさせた。具体的には昭和32年、防衛庁が航空機を国産化することになった事にともなって、鍍金部分を担当することに決まったからである。防衛庁の認定対象となったのは、特殊工程である鍍金設備と鍍金作業工程であり、当時の三菱重工(株)大江製作所の香村技師より指導を受けることになった。

同技師から、「北村さんの工場は町工場ではなくて村工場だ」と管理の重要性を力説し、当社の奮起をうながす事に努力されたのである。現在の品質管理の常識からすれば当然であるが、当時としては耳新しいことばかりで、香村技師の指導の技術知識のレベルアップ、検査機器の購入、機械設備の整備、管理技術の導入へと大変な苦労と努力を重ねて、ようやく認定に合格することができた。

しかし、当時は受注量もごく少なく、事業経営からすると損になりこそすれ利につながるものではなかったし、当時は通常の作業にこの管理手法を取り入れられるような、体制ではなかった。

防衛庁認定工場という名誉ある看板をかかげた北村鍍金に対して、同業者は好業績をたたえたが、当事者は返答に困惑という状態で、凡そ業績に寄与するというような仕事ではなかった。しかしこうした努力が、企業の将来にとって如何ほどの大きい影響をもたらすかについて当時は知る由も無く、むしろこうした仕事をするたびに、難しい書類を相手に特別な作業やら、記録をしなければならないため、若い技術者は孝直の満足感に反して頭痛の種であった。

この経験無しには、現在の電子部品や半導体材料を扱う事が可能となるまでの成長は望めなかったであろう。

一方ミツエは、社長として事業経営に携わるにしては、既に若さと、希望を失った女性でもあり、また過去の経験のみに頼れるほど、企業を取り巻く規則や厳しさは容易なものではなくなっていた。

従来の従業員が働かせてもらう時代から、働いてやる時代に変わりつつある時であっただけに、老経営者のとまどいは大きく、事業経営に失望していった。しかし、今日まで変わることなく若い人達の幸せを願って過ごしてきたミツエの人生観は、世の中の移り変わりを意識させなかったようである。

そして養女に迎えた弘子が年頃にも成長したし、今度こそと心に決しての毎日であった。しかし、一度ならず二度までも苦しい思いを重ねたミツエにとっては、決断するまでには至らなかった。世間の常として弘子の妹が先に嫁いでゆくことは、如何に養女として他家にある長女にとっても、ミツエの胸中とても、もう失うことは出来ないとする強い忍耐のあったことは理解できる事である。

皇太子殿下が、民間出身の妃殿下をと戦前までは考えることもできなかったことで、大ニュースとなり、ほほえましいロマンスの話題が世間に明るさを与え、名実共に日本の民主化が確立した思いがした年を迎えて間もなくのころで、皇太子、美智子妃殿下のお幸せにあやかろうと空前の結婚ブームが予測された頃のことでもあり、ミツエもいよいよ今度こそ最後であれと願う心での決断があった。

その九 新しい力

昭和34年ミツエの養子となり養女弘子と同年3月結婚、一男一女の父となった繁和(現会長)は、和洋家具製造卸業を営む祖父庄一郎の「商売人の子は、好不況の無い役人にする」との考えで、教育者となった父吉郎の男兄弟3人の末っ子として、広島県の山間部にある鵜飼町で満州事変勃発の年の6月に生まれた。

幼少の頃、海岸近くに在る母の生家で暮らしていた祖父母のもとで、しばしば遊び可愛がられて育った。この頃、海軍兵学校、海軍大学と進み、旅順港閉塞に出撃し、若くして散った林八大伯父に強い感銘をうけた。

そして、軍人になること本望とし、両祖父にもそう望まれて成長した。小学校時代は祖父に連れられて海軍記念日式典に参列したり、林八の恩賜時計や短剣に見入り、福山城跡に立つ林八の忠魂碑を友達に自負したりした。

こうしているうちに、幼い頃からの繁和の願望も、敗戦という憂き目によって、中学2年半ばではかない夢と消えた。

戦後は中学、そして新制高校でと野球こそわが命と若い情熱を傾けたが、残念ながら野球王国広島では我に勝利の女神微笑まず、4年間の主将をつとめる間に手にした優勝旗2回のみで、目指す甲子園の地は踏まずに終わった。そして東京六大学での丸い帽子を夢見たが、当時2人の兄が大阪におり、東京への受験は許されず、ましてや戦後の経済変動の激しい時期、3人の学資にたまらず田舎に居残りさせられた。1年間を母校のコーチをしたり、会社野球に加勢したりなどの浪人生活を過ごした。

そして、東京の丸帽にあこがれたが、ままならず当時は関西の丸帽であった関西学院大学に入学したもののそれも、新制大学と変わり丸帽は夢となった。

こうして大学2年の夏も過ぎた時に、級友の東京六大学での活躍に刺激されてか、ついハリキリ過ぎて肩をこわし、落ち目が続いて長い野球生活に終止符を打った。

そして、勉強に精をだす気持ちに変わって頑張ったが、卒業時は就職難の時でもあり、最初に決まった商社の経営難を耳にして止めにしたときは乗り遅れ、野球の腕でようやく探し出したのが塗料会社であった。入社して資材、倉庫、製品発送、経理へとかわり、営業部門に配属されて、官公庁入札、特約店まわりから、需要先開拓係となり、メーカーや工事会社、百貨店直販まで、およそ間接部門と呼ばれる職場を転々とした。

この5年間にわたって得た経験が、新しい仕事に入るに及んで大きな自信となった事は事実である。また、就職難の時代に低い給料に甘んじて、下宿生活や独身寮生活の体験をした本人にとって、働くものの立場に深い理解を示す人間になれたということである。そして、企業経営にとって労使が信頼し協調することが、いかに重要な基盤であるかを学んだのである。

若くして大工となり、20才の徴兵検査後には地元の小学校々舎を請け負うまでになった祖父は、なかなかの事業家でもあったし、何時の日からか和洋家具製造に転じて、今日の府中家具業の草分け的存在になった。また神仏を崇拝することは人一倍でむしろ分不相応な寄進もあえてやるという人であったが、繁和の幼少の頃にはかなりの資産も蓄えていたようであり、父も教育者であったが、家計は祖父まかせで収入は全て田畠や株式に投資していたようである。

「米糠3合あっても養子に出すな」と諺にもあるが、繁和がそうなったのには、次のようなドラマがあった。

冬休みに入ると田舎に帰郷することにしていた繁和であったが、一ヶ月ほどが待てず無性に故郷の空気に接したく、汽車に何の準備もなくとび乗った。永年野球一途に少年時代を送った彼であったが、いよいよ野球ともお別れだと決意したからである。(彼は彼なりに自分の人生を描いていたし、それにかけていた未来から新しい現実への転換にはそれなりの時間を要したからであろう)我が家に帰りついたのは陽もとっぷりと暮れた頃であったが、人の気配に気づいた母親が出て来て、繁和の顔を見るなり「何で帰ってきたの」という。母の異様な雰囲気にいち早く気づき、返事とは反対に「なにかあったの」と問い返したのであった。

日本軍の連戦連勝を伝えていた18年の秋、祖父がこの世を去り、しばらくは女手に続けていた家業も戦争の激しさと共に、工場も倉庫も軍需物資の格納に徴用されたので中止せざるを得なくなったが、戦後ようやく需要もあるようになった。父は永年勤めいていた教員生活を終え、家業再建に立ち上がっていた。収入が無くなった時から、商売が軌道に乗るまでの間、何とかしようと思ってか、30年間の退職金や蓄えていた貯金や株券まで、或る事業家というかペテン師に貸したり保証したりしていたらしい。それが全く返済される見込みが立たない状況であった。揚句の果て、途方に暮れた父親は、朝から無断で出かけて行方が解らないということがあった。

戦後の変革が大きかったこともあるが、先祖から受け継いだ田畑は取り上げられ、永年の労苦の末に得たものまでも無にして終わった父親は、子供達に申し訳ないと泣いていたようである。繁和もことの重大さに成すすべも解らず、口もきけなかったが、かろうじて「母さん僕がさがして来たげる、心配せんでえエ」と、語りかけるのがやっとであった。「虫が知らせたんやなあ」と、遅い夕食の準備にとりかかった母の後を追って「そいつとこ、どこや」と、夕食どころではないと、話を聞いていた繁和は自転車に飛び乗った。無我夢中で走ってはみたが、目指す相手がいようはずもなく、火の気もない家の前に一人力無く佇む父親を見たのみであった。

「おやじ帰ろうや」わざと、乱暴に口走って自転車の後ろに乗るように促した後は、父親も繁和もただ無言のまま、早く我が家にたどり着き、母親を安心させなくてはと懸命にペダルを踏むのみであった。家に帰っても両親の間には、既に話もつくされていたのか会話もなく、ただ一言、母から労いの言葉が我が子にかけられただけである。繁和自身も、奥の仏壇を前にした部屋に向かい合う両親に対して、何も問いかける気にもなれず沈黙を続けねばならなかった。

その時突然繁和の口から「オヤジ、わしの分け地や思うたらえエやないか、ワシは養子にゆくわ、家の財産一銭もくれ言やへん」と、はき出すように叫んだ。失意の中に、新たな将来を模索するような思いで我が家に帰った繁和には、そんな感傷すら許されない現実に、あたかも考えあぐねた結果であったかの如く、養子行きを決心させたのかも知れない。

子供達に申し訳がないという父の気持が、学業半ばの末っ子の、思いもかけぬ言葉を耳にしたことから、気分的にも楽になったのか、夫婦の間で、今日一日の出来事などについての会話が始まった。

繁和は、大声でしゃべった時にはそれほどまでに考えなかったが、だんだん「これでいいのや」と決意が固まるにつれて、涙の流れるのを押さえて席を立ったのである。

その十 重大発言

新婚旅行から帰宅した繁和にミツエは仏壇の前に来るように促して奥の間に去っていった。朝夕唱えている般若神経のお勤めを始めたミツエの背中を繁和は怪訝な顔で見つめながら、まだ若さのある元気な声に聞き入っていた。ミツエの重大発言は、亡夫和造をはじめ、先祖に報告して了解を受けた上で行われた。こういうことは、方法とその時と場所を配慮しないと効果が薄いものである。後々に及んだ経験からしても、ミツエの処置は、実に上手であったことに感心したものである。

さてこの時は、世話になった会社に対して、しばらく御礼の意味を含めて勤めるように、給料など頂かなくても良いという主旨であった。急に結婚が決まり式を終え旅行に出た繁和も充分な仕事の引継もしていないので、むしろ母に了解を得なければと悩んでいた本人にとっては出鼻をくじかれたような複雑な思いにかられたものである。相手の立場になって物事を判断するとか、実行するということがかけている今日、心しなければならないこととして強く印象づけられた。。そして御礼働きも終えいよいよ今日からという朝、また例の通りに呼ばれた。ただ異なることは、仏壇に印鑑が供えられていたことである。

会社関係の実印、銀行印など総てを「今日からあなたに預けるから宜しくたのむ」ということであった。お互いの気持ちも充分に解り合えない3ヶ月余過ぎたときのことである。会社の仕事について、西も東もわからない繁和にとっては、考えもしなかったことであり、一種の戸惑いすら感じながらも「それほど信頼してくれるのか、何とか頑張ってみなければ」と決心しものである。信頼して仕事を委すということが部下を育てる必須条件であることを、身を以って教えられたのである。そして或ることに関する以外は、その後ただ一度も繁和のやることに就いて尋ねこそすれ、口を出すと言うことは無かった。

この或ることとは、公私にわたって重要なことを実行する日と時間のことである。吉年吉日を選ぶということには実に厳しかったし、絶対に譲ろうとしなかった。万一あえて実行しようとすると、例の場所に連れ出されてさんざん油をしぼられたものである。それ故、どうしても実施しなければならないことは、母に知らせないように懸命になったものであり、また同じパターンによる動機づけがさんざん続くと効目がなくなることも学んだりした。そうした工作をするからには、絶対に失敗できない、確実に自信があることしかやらなかったものである。

そんなことから、確信の持てない施策に関しては、出来る限り多くの人の意見を参考にし、反対意見にも耳を傾け、自信のあることには、多少の反対も無視して、信念を持って進むことにした。しかし最近、強引に物事をやることが出来なくなったのは、突進精神の旺盛な若いときに比べ、少しは経験を積んだからで、年輪を重ねるに従って決断がおくれ、何かを信じるようになるのではないかと、母を思い浮かべている。

母は他にも、人様の前に出るときには、それなりの身なりをしなければならない。相手に不快感を与えないよう、先様に礼を尽くすためにもだ。見知らぬ方は身なりでその人を評価するものだ。など、汚れの目立った作業服のままで銀行に出かけようとする繁和は、大阪での生活が続いたせいか、それほどに考えなかったが、昔からの古いしきたりと伝統に生きる京都での処世術を教えられたものである。

「10年たらずの間、同じ屋根の下に暮らしていた私には、それこそ箸の上げ下げから挨拶での頭の下げ方、言葉尻まで・・・・・数え上げれば限りないくらい、本当によく気を付けて注意してくれました。当時はもちろん、いい気がするはずもなく、腹が立って口も交わさない日が何回かあったことを覚えています。」 と、繁和が人にもたらす母へのしみじみとした述懐こそ、母の一言一言が、どんな企業経営指導書にもまして、立派な二世教育をしていたものであると敬服すると共に、歳月を経るに従ってその味わいも増し、今後もなお共に生き続けるだろうと信じてやまないのである。

その十一 永遠の旅立ち

それは昭和43年の11月のお火焚祭の朝でした。何時もこうした祭事をするときは、誰よりも早くから準備してハリキルというミツエであったが、当日はよほど疲れていたのか、約束をした時間になってもまだ寝ているといった様子で、延期したらという提案にも毎年同じ日に行っているので変更することは出来ないと、体調が悪いなかを参加した。

そして、今まで通りに第一線を退いてからは常にそうでしたが、皆のやっていることが都合よくいくように、そして社員一同の幸せを祈るという、最後の行事も終えて帰りの車中で倒れ、一時は苦しみましたが、それも乗り越え、一応元気お取りもどし・・・家族や一部親戚の人たちとも楽しく語らい、最後は付き添った人もわからないといえる程に、眠るが如き大往生を遂げられました。同年12月6日のことでした。享年68歳であった。

人間の一生、いわゆる最後の一瞬が最もその人を語るものであるといわれていますが、常に自分の事は考えず人のために尽くすことのみ考え、実行されてころれた一生にふさわしいものであった。

生者必滅、会うは別れの始めとか、今昔東西を通じて、世の無情、はかなさを言葉に託すものは数多く見受けられるが・・・・・その実感たるや、やはりその場に至らなければ分からないという心理こそ、人の世であろうか。

戦後の荒廃からようやく立ち直り、世界の一流国へと蘇った国土。若くして夫と共にめっき業に入り、創業の苦しみ、戦争の痛手、夫との死別と、数え切れない辛苦の50年を強く生き抜き、守り育てた事業も、ようやく花が咲き実を結ぶという時期に。しかも、晩年神仏への加護を単一の楽しみとした人にふさわしく、例年のお火焚祭りの行事を無事終えられた帰途、病につかれ、そして眠るが如きの大往生をとげられた-貴方-。どんなに皆んなが悲しんだか。

私たちが、故北村ミツエさんのお人柄について、到底書きつくせるものではありませんが、創業者がこのような方であったと少しでもわかって頂ければ幸です。
終わり
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